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『母のこと』

 投稿者:jaspers  投稿日:2012年 4月26日(木)00時30分8秒
返信・引用 編集済
  今月号(2012年5月号)の『婦人之友』の「母のこと」、池内紀著を読みました。

ぼくは感覚として、池内さんがここで書かれている事が分かる。
地方の人間が高等教育を受けるとはどういうことかどういう感覚だったかということが分かるし、考えさせられた。
労働や金銭や生活感が伝わってきました。

少し前の日本の地方に存在した話なのだけれど、いきるとはどういうことなのだろうかと考えずにはいられないのだよね。
いきる魅力、いきるせつなさ、そもそもいきるとはどういうことなのだろうかと、ぼくが子どもだったころを思い出しました。
そういえば、最近は、泥臭さがなくなった。

文章のわざというか、思考のわざというか、技法についても考えました。

ぼくの能力不足で、うまく表現できないのだけれど、効く感覚がありました。

お勧めです。
是非、読んでみてください。
 

『確かに、東大の次だった!』

 投稿者:jaspers  投稿日:2012年 3月25日(日)00時34分13秒
返信・引用 編集済
  副題は『警察も保健所もなかったけれど、官立大学第二内科と精神病院と患者は存在した地域』にしたい。
今月号の岩波書店の『世界』という雑誌を図書館で手に取った。
読んでみたい著者が一名いたからだ。
目次を開いたら、その読みたいところ以外に≪倫理≫ということばがあったので、そこを読む。
ああ、ナチス・ドイツの医学上のことかと思いながら、後でじっくり読むつもりで斜め読みをする。
この斜め読みというのは、頭に残らない読み方であり、読んだうちに入らず非常に好ましくない読み方なのだ。
タイトルや著者は思い出せても、内容が思い出せない時がある。
その点でも、書写で読むというのはとてもいい方法だ。
そんなことではなくて、その精神科医が書いた論述を読む。
この本に書かれてある内容は、後ほど、ここで紹介するつもりだ。
糾弾とか、責任追及という論旨ではなかったように思う。
医学上の、それこそ倫理および倫理学上の問題を著者は述べているのだ。
もちろん、その著者である精神科医師がどのような政治的、臨床的などなどの立ち位置なのかは知らない。
読み進めると、引っ掛かる単語がふたつ重なっていた。
地域名と病名である。
図書館に調べ物も依頼したし、もちろんぼくも調べてみた。
が、地域に、知がないのだよね。
図書館も限られているし、人も限られている。
ぼくが調べたものでも、図書館で調べていただいたものでも、ネットの資料が一番充実しているという事だった。
が、ネットの情報は、いまいち引用だとか、出典だとかが信用できないというところがある。
その信用度では、やはり本なのだよね。
(さらには、ぼくの興味を引き付ける単語がなければ、その論述は読まなかったわけであるし、ちょっぴりであってもその周辺となる学問を知っていなければ関心どこではない。自分で調べる、興味を持つ、知的好奇心をそそられるとまではいかないわけなんだよね。親には直接言わないけれど、大学に行かせてもらった事を感謝した。また学生の時の先生に感謝し、少しではあるけれど真面目に勉強し真剣に考えた成果もあったなと思った。)
図書館の人とも話したのだけれど、ネットで見つけた国会での審議の記録が、今出来る範囲では一番信用できるのではないかという結論になった。
『第026回国会 文教委員会 第30号』(昭和三十二年七月十一日)というものだ。
これまでに、何度か、『犯罪史上稀にみる』だとか『戦後、これほどの犯罪があっただろうか』ということを聞いてきた。
(ぼくも、メディアや権力には騙されないようにという事を気をつけていたのだけれど、この案件は知らなかった。知ってからは、どの事件も小さく見えてしまう。さらに、内なる善悪の判断も揺らぐ。が、ここまで行かなくとも同質の案件は、実際に見て来た。だから“天使主義”といわれても分かるのだけれどね。戦地から帰還した人たちのことを考える。アメリカでは時々問題になるけれど、戦地からの帰還兵が事件を起こす。“経験”を考えると、漠然とではあるけれど、その人たちの気持ちも分かるのだ。事件は起こさなくとも、キツイ状況は続くだろうね。思想ではなくて、やっぱり戦争はしてはならない。勝っても負けても、権力は個人のこころのなかの悪しき経験に対して責任は取れないのだ。)
が、この件を知って、現憲法下で、この案件以上のものはあっただろうかと考え込んでしまうわけ。
(もしかして、この案件は所有してある本に書いてあるのかもしれない。)
これ読んでみると、医学だとか、科学だとか、実験だとか、そういうことではないのだよね。
実際、そんなレベルの話ではなくて、虐待及び虐殺事件なんだよね。
国会の議事録を読んで、残念に思ったことがいくつもある。
が、それは書かない。
個人の責任追及になるからだ。
が、制度の問題を考えると、議事録にあるように、なんだか漠然としてしまうのだ。
繰り返すけれど、この案件は、小さくないはずなのに、知っている人がいないし、記録も、本も少ないのだよね。
(当事者の記録ではなくて、むしろ外からの記録が少な過ぎるのだ。この時代を生きて、医師で当時の状況を知っている人は、出来たら記録を残していてほしい。時間が経過すると、事実すら抹殺されるおそれがある。だって、現在でもほとんどの人が知らないのだもの。)
本は自分で読むものであるし、興味を持つとはどういうことか、メディアとは、様々な事を考えてしまった。

具体的な内容が書かれていないで、何の事か分からないかもしれない。
官立大学医学部の内科の教授が教室員一丸となって、精神病院の患者にツツガムシの毒を注射し、多数のものが亡くなったという虐殺事件のこと。
当時と変わっていないところも、多々あるように思うのだけれどね。
 

『世界』

 投稿者:jaspers  投稿日:2012年 3月15日(木)21時04分58秒
返信・引用 編集済
  岩波書店の今月号(2012年4月号)の『世界』は、興味深いものがふたつあった。

図書館で手にとって、実際に読んだからいえる。

けれども、その感想を書けるという状態ではない。

この本は月刊誌であり、優先順位はとても高いのだけれど、今読んでいる本があったり、読むが遅かったり、ということで手が回らないのだ。

忘れないないための記録という意味で、ここで書きとめておきたい。
 

『持つ哲学と学ぶ哲学』

 投稿者:jaspers  投稿日:2012年 2月21日(火)22時37分22秒
返信・引用 編集済
  今月号の「ちくま」のなだいなださんのところ『持つ哲学と学ぶ哲学』を読みました。

大変勉強になりましたし、ぼく自身の人間としての全ての力不足を痛感した。
是非とも、皆さんに読んでいただきたいので、内容を書いたり、噛み砕いてということは、読書紹介の場ではどうなんだろうかと思う。

何かを読み、何かを見て、考えることだって、つまりは分析したりというのも、田舎では非常に大切な事なのだ。
そのようなことが考えられないから、誰が見ても悪い事が地域の問題として解決できずに残っている。
場合によっては、誰が見ても悪い事が地域の常識となってしまっている。

話がそれた。
なだいなださんは、冒頭で≪あなたは自分の哲学を持っているか≫ということを問いかける。
ぼくが物事を考えて行動して行く上で(ぼくの中では、これが哲学や倫理学なのだけれど。)、影響を受けた先生は何人もいる。
その先生方は、≪哲学≫は持っておられた。
ぼくもその≪哲学≫をちょっぴりではあるけれど、持っているといいたい。

そして、≪常識≫の話に展開して行く。
ぼくは、己に対する≪常識≫と実務的な面での能力の欠落は認めるのだけれど、ある程度共通の≪常識≫は“知っている”という位の能力しかない。
さらに考えれば、日常生活の中で≪哲学や倫理学≫について考えて行動するという事は、いくらでもある。
が、≪常識≫というのは地位の獲得、社会参加がしっかりと出来ている事、その集団の中での人間関係があるので、人のせいにするということではなくて、今の50歳以下の人たちにとっては、≪常識≫との遭遇が難しく、≪常識≫とのぶつかり合いなのかもしれないなということを自分の体験や経験を通じて考えてしまった。
この最後に書いた≪常識≫が、ぼくにはないのだろうな。

論点を的確にとらえているかというと、捉えていないのかもしれないけれど、なだいなださんの『持つ哲学と学ぶ哲学』は、短い文章だけれど、量的な拡がりもあるし、質としても(嫉妬となっていた。このような誤字はとても嫌だ。原因は確認作業をしないというところにある。)、つまり生き様としてもとても考えさせられるものである。
哲学・倫理学に興味のある方は、是非とも読んでもらいたい。
 

『霊媒のいる町』

 投稿者:jaspers  投稿日:2012年 1月31日(火)22時17分29秒
返信・引用 編集済
  『霊媒のいる町』、北杜夫著を読みました。
読み始めて、どのような結末になるのだろうかと思いながら読んでいました。
テレビ朝日で放送されていた『トリック』のような結末なのかなと思いながら読んでいたのですが・・・・・。
学問だとか、生きるだとか、性だとか、職だとか、つまりそれは若い時の迷いであり、人生の靄なのですが、そのような若い時の事を思い出してしまいました。
これが北杜夫さんの意図したところなのではないだろうかと思ったのですが、この『霊媒のいる町』は『夜と霧の隅で』の文庫版に収録されています。
北杜夫さんが、作家として認知されるまでの、こころの内面を描いたものなのかなとも思ってしまいました。
(すると、場所は山梨県なのだろうかとも思ってみたり。)
カフカの短編ではないですけれど、この『霊媒のいる町』も謎解きみたいなところがあり、読者はいろいろと考えるのではないかと思います。
 

『夜と霧』

 投稿者:jaspers  投稿日:2012年 1月23日(月)21時58分8秒
返信・引用 編集済
  V・E・フランクルの『夜と霧』(霜山徳爾訳)を読みました。
北杜夫さんが亡くなった事と新聞で香山リカさんが紹介していたのを見て、再び手に取ってみよう、読んで見ようと思ったのが動機です。
ただ、この本は、読む方のこころに余裕がないと厳しいように思う。

若い時は、理屈で理解していたように思う。
が、歳をとり少しではあるけれど経験をすると、この本に書いてある事に同意し、納得し、出来ないところもあったけれど、間違った事はしていなかったと、ぼくは自分にいいたい。

フランクルはどんなことがいいたかったのだろうかと考えてみる。
冒頭から半分以上を割き、どんな過酷な環境でも適応することの重要性を実際の体験から説いている。
(現在の日本を見た時に(それは自民党が作り出して来たものなんだけれど)、この過酷な状況を作らせないために自ら考えるということが重要なんだけれど。)
そして、自分の内面について考えている。
清く、正しく、というぼくが住んでいる地域の行政がなんとかのひとつ覚えのように唱えていることではなくて、完全で完ぺきではないけれど、人から見ても、自分で振り返った時にも恥じない行動をしようということだ。
さらに、若い時にはあまり深く考えなかったのだけれど、解放後の行動は現代を生きる私たちに響いてくるように思う。
この三つのことを深く考えた。

地域で検証可能な事を書くと、このフランクルの『夜と霧』の話をして知っている人はいなかったりする。
厳密には、ごくごく僅か。
二十世紀最大級のベストセラーといわれている本でも、地域ではそんな状況。
さらに、地域での仕事って何なんだろうかということも考えた。
フランクルが書いている解放後の事が、ここに当てはまる。

漢字は出来ない方ではなかったのだけれど、少し古い本を読むと、読めない漢字が沢山ある。
当然、その漢字の意味も分からない。
今は、ネットで調べられるので、詰まるということはないかもしれない。
単に本を読んでいるだけならば、飛ばして読むこともあるし、分かったつもりで流れで勢いで本を読んでいく事がある。
ただ、書きながら読んでいくと、分からない漢字がはっきり分かる。
書き読みは、大人の読書だと思う。

現在の社会は、結果良ければすべてよしみたいなところがあるけれど、個人の胸の中にフランクルの思考をしまっておいて仕事にあたる、あるいは生きていくというのはとても大切な事なのではないかと改めて思いました。

ぼくの考えは押しつけませんが、フランクルの『夜と霧』は読んでおいた方がいいと思います。
 

『悪とは?』

 投稿者:jaspers  投稿日:2011年12月29日(木)14時55分34秒
返信・引用 編集済
  改めて北杜夫さんの『夜と霧の隅で』と、V・E・フランクルの『夜と霧』(霜山徳爾訳)の解説の部分を読んでみて、昔とは違う感想を持った。
まず、ナチスのようなものは、日本においてもバブル崩壊後潜在化していたものが顕著になり姿を見せるようになった。
というのは、バブル以前は、組織だとか、統治だとか、そのようなことばはあまり出てこなかったような気がする。
個人の悪、罪は、問題になる。
どういう基準なのか分からないのだけれど、その人の全てが情報共有化されてしまう。
あらゆる社会的な制裁を受ける。
弱い立場の人ならば、より強い社会的制裁が待ち受けている。
風俗店に勤務、精神科通院歴あり、身体障がいあり、発達障がいあり、知的障がいあり、文集も写真も公開される。
これは、結果の前の過程の話。
結果を見てみると、弱い立場の人は、社会的制裁を受けているから、執行猶予だとか、依願退職だとか、さらには行政罰だけ、ということにはならない。
ナチスを考える時、この過程と結果についても考えざるを得ない。
ここが、若い時の考えとは違う。
自ら、ちょっぴりではあるけれど、経験して結果は出なくとも動いてみて見えるようになったからなんだと思う。
複数の人間が、それはつまり組織になるのだけれど、悪を為したというのは不問。
人々の関心は、その結果にいく。
が、その組織化された悪が為す過程も、大人同士の場合、当然だけれど見逃せるものではない。
ぼくたちは、お互いが住みやすい社会を作るには、真のエリートならば、ここを考えないといけないのではないか。
(北杜夫さんも、師匠もいい意味でのエリートを増やし、よりよい社会を築くということを考えていた、いる最中なのではないかと、ぼくは思ってしまう。)
ナチスの場合を考えると分かりやすいはずなんだけれど、この組織化された悪の過程こそが、重大な問題なのだ。
(結果の重大性なんていうのも、よく考えてみるとおかしなものだ。行政の仕込みや原発事件を見てみればわかる。仕込みになんて、計画性もあるし、公金の詐取でもあるし、労働法規違反でもあるし、様々な組織的な悪が考えられるのだけれど、不問だ。)
というと、権力側は、様々な法律を持ち出してくる。
さらに、持ち出さなくとも、権限の強化という知らず知らずのうちに大掛かりな、ぼくたち個人を取り締まる装置が出来上がってしまっていて、気付いたら、凄まじいということはよくあること。

東日本の本州に住む人間として、今年は、様々な事があった。
自分が実際に経験することよりも、辛い災害もあるということも知った。
その年末に、このような組織や悪について考えてみるのもいいのかなと思う。
そして、どうしても記しておかねばならない気持ちになった。

過程を見た時、悪がそぐそばに善良を装って存在しているのです。
これは、ぼくは身を以って経験しました。
そして、克服できない地域の課題でもあります。
若い時にもこのことは思っていたのですが、経験が無くて、実例が無くて、他の人に話してもうわべだけでした。
今は違います。

さらには、特定の人たちを思い浮かべてということで、この文章は書いていません。
ある程度、どこにでも当てはまるような組織的な悪について書いているつもりです。
また、そこが出発点でした。

北杜夫さんの『夜と霧の隅で』とV・E・フランクルの『夜と霧』(霜山徳爾訳)の解説を読んで、本当の悪とは何なんだろうかと考えてみました。
この本がお薦めなのは、いうまでもないことです。
また、常識としても読んでいた方がいいでしょう。
 

『追悼文なんて書くな』

 投稿者:jaspers  投稿日:2011年12月 9日(金)22時03分53秒
返信・引用 編集済
  新潮の今月号のなだいなださんの『追悼文なんて書くな』を読みました。
北杜夫さんが亡くなったのは、現実なのだなと改めて思った。
(肉親ではないけれど、あの東北太平洋沖地震で大切な人を亡くした。今年は辛い死がいくつかあった。)
ここにしか書かれていない事があり、とても興味深い。
私のとっては、大変苦労して手に入れた本の一つに『なだいなだ全集 12』がある。
もちろん新書では購入できなかった。
その附録のしおり(北杜夫さんと長田弘さんが書いておられるのだが)と、このなだいなださんが書いた『追悼文なんて書くな』は対になっている。
『追悼文なんて書くな』で書かれている事は、今まで北杜夫さんの方からのものであった。
が、なだいなださんの方からその事象について書かれている。
ぼくなんかは、どんな激しいやり取りがあったのだろうかと思っていたのだけれどね。
この本を読むことにより、読者はその内容が図面として、二次元として捉えられるのではないかと思う。
このような本は、見逃すと手に入らないので、関心のある方は是非購入しておいた方がいい。
 

「夜と霧の隅で」

 投稿者:jaspers  投稿日:2011年12月 7日(水)22時42分31秒
返信・引用 編集済
  「夜と霧の隅で」、北杜夫著、新潮文庫を読みました。
もちろん小説なのだけれど、論文、教科書として使えるのではないかと思いながらずっと読んでいました。
最初の方は、北杜夫さんが賞を取りに行く、凄まじい衝動を感じました。
北杜夫さんは、あの私のようなとてもわがままな作家を相当意識されていたのではないかと思いながら読んでいました。
読後感は、やはりこの「夜と霧の隅で」は賞を取る事が当り前ということを感じ、北杜夫さんの偉大さを改めて感じました。
登場人物の気持ちも精神科医療ではありませんが、私はこの目でついこの間、見たような気がします。
環境との適応という事を考えた時、高島の気持ちは理解できます。
実際に、全てが暗闇に閉ざされ、毎日が良心や誠実さとの格闘である場合、ケルセンブロックをはじめとする医師や看護師の気持ちも分かります。
北杜夫さんは、この小説を書いている時に胃潰瘍になったとのことですが、その気持ちも少しではありますが理解できるように思います。
最後に、他人の狂気も恐ろしいと感じる事があります。
が、内なる狂気は、それ以上に恐ろしい。
そんことを久しぶりに考えました。
 

『取り返しのつかないものを、取り返すために』 2

 投稿者:jaspers  投稿日:2011年11月30日(水)21時14分1秒
返信・引用 編集済
  『取り返しのつかないものを、取り返すために』のなだいなださんのところの記述が頭を離れない。

なだいなださんは、凄いな、と思う。
というのは、導入が上手いのだ。
それは、相手の緊張を解きほぐすことにつながり、失敗しない、人を引き付けるということに結び付くと私は思うからなんだ。
試験でも人でも、絶対になどと思うと、まあ失敗する。
これは、あの大天才の北杜夫さんも書かれていたので、まず間違いないこころの法則のひとつであろうと私は思う。
私の事でいうならば、若い時にどうしても入りたい会社の試験を受けた時、緊張してしまいだめだったということが数度あった。
投げやりな気持ちで受けた会社は、自分でもびっくりするような高得点が採れたりする。
が、時が経過し、若い時に入りたかった会社は潰れたものもあるし、傾いているところも数社ある。
そこに入っていれば、損出は抑えられたかもしれないけれど、かけがえのない経験は得る事ができなかった。
人生とは、とても難しいものである。

話がそれた。
なだいなださんの場合は上手い導入なのだけれど、私の場合前菜で物凄くまずいものを食べさせメインは腐っていて食中毒だなんていわれそうで怖い。
ちなみに食中毒は、保健所だ。
このようなことを書いていると、収集がつかなくなる。
どうでもいいことが長くなりそうだ。
それは、それでよし。

『取り返しのつかないものを、取り返すために』の中の話だ。
≪デカンショ≫の話は、興味深い。
≪デカンショ≫の源は、ソクラテスではないだろうか。
例えば、直覚というのは、やはり先天的な要素がある。
すると、直覚は、形而上学的な問題、つまり神や宗教の問題となってしまう。
どうしても、そのように発展してしまいがちになる。
それに対して、常識哲学で≪よし≫とされることは、ちょっと違う。
常識哲学は、後天的な獲得つまり経験や教育によるところが大きい。
このふたつの考えをあわせもつことにより、私たちはより柔軟な思考を手に入れることが出来るのだ。
つまりは脆弱でなくなるということだ。
が、この常識も当然ではあるけれど注意しなければならないところはある。
私は、若い時も今も常識といわれると、よほどの信頼を置いている人からでないと、ちょっとと思うのも事実である。
常識とは年長者が集団で年下の者の個性を縛るということが日常的にあるから、そんな風に思うのだけれど。
私の中では、考えさせられることである。
(ここで書けないことなんだけれど、デカンショの問題は学閥の問題もある。いい意味での学閥の問題。いや悪い意味なんだろうか?それは、ひとさまざま。)

最後にもうひとつ。
自分の事を振り返る時、他の人たちから厳しくいわれた事がある。
勉強をする時に、『自分の為にやるんだ』ということを、他の人たちに厳しいことをいう、やらせる、しつけを重視する人からいわれた。
では、本当に自分の為になんてやると、周りは怒りだす。
周りの穏健派が怒りだす。
それは、私に期待しているから、穏健派が怒るのだ。
その期待に応え、私が立ち位置を得て、そして他者の為にもがんばれるというのが本当のエリートであり、ワイズマンなんだろうなと、名前は伏せるが師匠の協調性のすごさを見ていて思う。
そんな人間に私もなりたい。
 

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