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シルクロードを旅して

 投稿者:アストライアの会  投稿日:2017年11月30日(木)14時08分21秒 211.net059086126.t-com.ne.jp
返信・引用
  西の方、玉門関を過ぎれば羌笛哀し
~東西の壮大な交流の道~
砂漠に埋もれ、奇岩に刻まれた人々の情念と民族興亡の歴史、オアシスの町と遺跡の数々、砂丘と山脈、見渡す限りの大自然、今も私たちを惹きつけて止まないシルクロード。
7世紀には玄奘三蔵が天竺の経典を求めて苦難の旅を続け、楼蘭の廃墟に立ち寄った事は
「大唐西域記」にも記されています。
ドイツの地理学者リヒトホーフェンが命名した「絹の道」
は、砂漠のオアシスからオアシスを結んで発達し、馬や駱駝を使った東西の交易を通じて
中国からは絹織物、西方からは葡萄、ザクロ、金貨、ガラス製品、毛織物、更にはエキゾチックな音楽や舞踊がもたらされました。日本にも奈良の正倉院にシルクロード由来の中国製やペルシャ製の宝物が数多く保存されてい
ます。天山山脈を挟み西は洛陽、東はローマまでの遥かな旅路。往古のシルクロードの歴史や文物に想いを馳せてみませんか。
シルクロードを数知れず旅して研究を続ける野口さんに、スクリーン上の美しい写真の数々を観ながら、お話をして頂きます。

「世界古代文明の謎を探る」(15)シルクロードを旅して
主催 アストライアの会 協力 日本セカンドライフ協会
ゲスト 野口信彦日本シルクロード文化センター所長
日 時 平成29年12月18日(月)午後2時から5時
会 場 豊島区イケビズ第1会議室(池袋駅西口より9分)
費 用 お茶代込み参加費二千円
連絡先 TEL049(258)3218 松原まで
備 考 後半はゲストを交えたお茶会です。

http://www.gilishya-shinwa.com

 
 

我々、日本人は何処から来たか?

 投稿者:銀河 秋彩  投稿日:2017年11月29日(水)00時42分4秒 wmx2-pvt-211-131-255-123.kualnet.jp
返信・引用
  「ノアの洪水」の、ノアの末裔がギリシャへ移動し、クレオパトラの支配下に入った!
クレオパトラと共に、エジプトに入ったが、奴隷となった!
モウセと共に、聖書に記載の「出エジプト記」で、カナンの地に入った!
つまり、蘇我と物部は、ユダヤの二部族でもある!
ペルシャやインドを経由し、中国に入り、呉(蘇我氏)や越(物部氏)は、
台湾を経由し、沖縄(クレオパトラ=シーサー)から九州に入った!
つまり、倭人である!
我々日本人は、「ノアの洪水」後に、ウラルトウ王国から、ギリシャ(クレオパトラ)を経て、
(奴隷として)エジプトに入り、★上下の遺跡の、【類似性】に注意
★【ライオン門が、(エジプトの)スフィンクス→(沖縄の)シーサー → 日本では、神社の狛犬に】
 またギリシャの風景【ミケーネ文明の中心地:ミケーネ(御毛沼や三毛猫・派生語)】
 (ライオン門→我が国では、沖縄のシーサーや神社の狛犬)
http://www.geocities.jp/my_seawinds/greece_mikines1.html
「ノアの洪水」で、小アララトのウラルトウに。
その後に、ギリシャのクレオパトラを立て、エジプトに入るも、奴隷となった。
カナンの地に移り、モウセの十戒を受け、ペルシャやインドを経て、中国に入る。
弥生人として、中国の呉・長江辺りから、台湾~沖縄(スフィンクス→ シーサー→狛犬)に
渡来している。
物部は、更に北上し、【▲矛圏】(司馬懿に依り)難升米の邪馬壹(やまい)国を
成立させている。
その後、(魏)曹芳の支持により、蘇我は【●鏡圏】邪馬臺(やまと)国を成立させた!
また物部氏の祭神は「(三輪山の)蛇」であるが、蘇我氏の祭神は神社の前にある
一対の「狛犬」である。
元々はライオン(エジプトのスフィンクス→ 沖縄のシーサー)なのだが、
我が国に居ないので、「狛犬」になった。
「獅子舞」の獅子(ライオン)でもある。

http://ginga3396.blog.fc2.com/

 

古代に支配していた氏族

 投稿者:銀河 秋彩  投稿日:2017年11月26日(日)16時39分44秒 wmx2-pvt-122-135-255-123.kualnet.jp
返信・引用
  (陸続きの大陸から歩いてやって来た毛人)縄文人の、縄文時代
   ↓
【◆銅鐸圏(燕)】公孫氏……韓半島で難升米と司馬懿に依り滅亡!
   ↓
【▲矛圏(物部氏)】難升米の邪馬壹(やまい)国吉野ケ里、「以死」
   ↓
【●鏡圏(蘇我氏)】
① (発祥地)臺与の投馬国(とまや ←逆さまから読む倒語)・
即ち、邪馬臺(→ やまと国・トカラ列島の宝島)
http://www.kurumi.sakura.ne.jp/~mmrnet/yamataikoku/yamataikoku2.html
⇒ ② 邪馬臺の斉明太上天皇・天草の御所ケ浦島。
宮崎康平と▼北朝鮮の、無知アホ糞馬鹿、愛 Love You は間違って、
斉明太上天皇・御所ケ浦島を(発祥地)邪馬臺国としている。
鯨魚(いさな)取り 近江(天草)の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 ~
  萬葉集(巻2・153)
⇒ 推古太上天皇の女王国・鹿児島県&宮崎県
⇒ ③ 君臨者・ 推古太上天皇●蘇我大王家(秋)+統治者・弘文天皇■天智系(春)

http://ginga3396.blog.fc2.com/

 

<出雲竜を縛り付けている銅戈&勾玉を掘り上げろ!>

 投稿者:史実探偵: 平 素人  投稿日:2017年11月12日(日)07時48分0秒 p645028-ipngn200110okayamahigasi.okayama.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
    初めまして、表題に参画して下さる一人でも多くの方を捜しています。
出雲市大社町杵築東・猪目峠の大文字地形にそれは埋められている!
  http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-81.html

追加情報その6. 三方・さんぼう>からの考察
三方は、神に鏡餅等の供物をお供えする用具で、折敷(おしき)と呼ばれるお盆の下に胴(台)がついた形をしており、その胴に三方向の穴があいていることから、三方・三宝(さんぼう/さんぽう)と呼ばれ、台の穴は宝珠の形やハートの形があり、主に桧の白木で作られている。台の形は、四角が一般的であるが丸い筒状のものもあるようだ。
  http://ameblo.jp/izumo-shintotsukawa/entry-11744162888.html
筆者が注目したいのは、三方にあいた穴である。「なぜ四方でなく三方なのか?」 この刳り穴は只の装飾とみる考えもあるようだが、はたして、そうであろうか? 一般的に言えば、仏具がきらびやかな装飾に進化しているのに対して、神具は一切の装飾を廃し、白木や白磁様の簡潔なものとなっている。このような供物台の制作の進化を考えると、皿・盆に足をつけ、高坏・たかつき状になっていく。なのに、台や胴部の内を空洞につくり、しかも刳り穴まで開けている厄介な造りになっている。素人的には、神に対して一切の汚れを落とし簡潔にしたいのなら棒状に切った木をくっ付けた形にすればいいと思うが? そのようにしていないのは、何かの意味があるのではないか。

<何を狙っているかと言うと>
青面金剛さまや、Dr.いずも氏>が言われたように「何やらの神を幽閉した」 とあるように“閉じ込めておく為の空洞ではないのか” それが悪しき神か、善なる神かは知らないが、歴史を遡ると、前述の“環状木柱列”で謎解きしたように「冬至の旭光」を招き入れ幽閉する為に背後だけには穴をあけずに三方とした。その光を包み込む為なら、その穴は木箱に入っている大黒様のように前方だけの穴あけでよいと思うが、それが推めない。どなた様かご教示を!
 筆者の推理が正しければ、その咽首の円形地の “南東の方角にその坑道の入り口をふさいだ大岩”が現存していなければならないし、今、鷺浦での竜蛇のお祭りで桧の丸太の“幟・のぼり”を立てているように、 “円形地の四方に掘っ立て柱の痕跡”がなければならない。そして、その坑道〈穴〉の中にそれぞれの象徴である勾玉と銅鏡と銅戈(も?)が埋まっているのは言うまでもない。
 蛇足ながら 『その穴の中で、銅鏡である大黒天様が、四千年前の冬至の朝に暴れた島根竜が二度と暴れないように鎮め守って下さって居ます』 ということだ。 但し、その探索や発掘によっての危険や、それより何より 「神をも畏れぬフトドキ者めが」と “その祟り” を貴方さまが被っても、(スパイドラマ風^^!)当方は一切の責任が持てないので自己判断と自己責任でお願いします^^。

その10. 坪背山(壺背山) ('17/11/06~)
<法師崎のやまある記>さまのブログより新しい情報を見つけた。氏の自己紹介では「山口県を中心にした中国地方・その他の山々」の登山家のようで、その山の歴史的背景はもとより写真・動画ありの臨場感にあふれるご記事である。多々ある中の坪背山(壺背山)のご記事に注目したい。筆者が大の字の中心部を、鷺峠としたのは誤りで、その少し南寄りの猪目峠であることを知った。この峠は鷺浦や猪目洞窟へ行く三叉路にあり猪目峠茶屋跡がある。そして近くに弥山への登山口もある。猪目洞窟はおおくの遺物が出土し、その入り口が△目のイノシシにも似ているところからの命名のようだ。弥山(みせん)の山名は安芸の宮島にもありその関連性も気になるが、今回は坪背山に絞りたい。

坪背山は出雲国風土記の烽火山五山の一つ。
その山頂からは、木立にさえぎられてはいるが出雲大社側と鷺浦が見えるようだ。茶屋を登り口とし3~6番までの石柱がある。筆者が円形地形とした場所は3番であり、そこでは筆者が思っていた土俵とか鏡餅形のイメージは、木立を刈払えばいいのかも知れないがほど遠い。そこをピークとして尾根道を4番、5番、6番へと進む。6番は明らかな山頂ではなく、なだらかな平地のようであるから、ここで烽火・のろし火を焚いていたのであろう。その平地の広さも問題で、そこに何人が立てるかによって、祈祷の規模がわかってくる。石柱には番号と山境灌水流と刻んであるが、その意味は分からないとのこと。何時にその石柱を立てたのかも分からないが、字体や風情からして百年未満と思われる。高さ1m余りの石柱は、かなり立派であり、そこに番号までふっていることは、そこで何かの所作を行っていたと窺うことができる。番号をふっての登山や寺社巡りは多くが知るところであり真宗や真言宗にその形態を残している。わずか3百メートル余りの山に番号をふり石柱まで立てている重要性とはなにか。1番と2番がどこにあるかを知りたいが、真名井の清水が一番であれば面白いのだが? 石柱の「山境灌水流」とはなにか。「山境」の意は、この尾根道が大社側と日本海側の分水嶺であるとは、前述してきた。

「灌水流」とは、何を意味するのであろうか?
出雲や、大社の神事に詳しい人の教えを願いたいが、素人なりに考えを進めてみる。潅水とは、潅がい用水にあるように、作物や木々に水をやることと認じている。ちなみに「かんすい」を語句変換すると、冠水、寒水、環水、簡水、換水、鹹水と、なにやら意味ありげな語句がでてくる。古代においては語彙数が少なく一つの言葉に多くを重ねていると知るところである。ここは「戦いの為」のノロシを焚く場所が定説であるが、その為だけであれば「流」の字はいらない。分水嶺で水を“流し” 北の日本海側に流れるか、南の水稲地側に流れるかの占いの意もあったのかも知れない。坪背山は壺背山とも知った。壺に呼び水を入れ「水田側により多くの水を」と撒きながら登ったに違いない。

壺背山6番の山頂にたどりつく。
 ↓ (11/15この項、推み誤りがあります。お詫びして削除します。
最後の願いは、底に残した水をカマドにかけ、水蒸気となし「慈雨」を願い天に昇らせる。その時のカマドは瀬戸内で多出している<特種器台>だ。出雲にその方向を向けるという吉備津神社があり、歴史の多くがつながっている。壺の底が尖っている形状は保管には向かない。祈りが終われば割砕き八方へ破片を放る。山頂からタブレットを投げる風習は今に残っている。これだけの所作は一度きりとは思えない、筆者の推理が正しければ、その南側で多くの壺片が発見かるはずだ。
青面金剛さま>に云われてます。くれぐれもマナーや安全に気を付けての探索にして下さい。
言い添えておきますが、出雲での雨乞いの本拠地は、松江市の「茶臼山」であるとカテゴリー「出雲地方で」前述しています。

 以上、猪の目茶屋から、坪背山山頂までをたどって来た。
この道すじに岩屋ありとにらんで来たが、とくに<コレ>といった場所には当たらなかった。
 <法師崎のやまある記・坪背山>の文面の最初から始めて、次の文面に注目したい。


 http://www.geocities.jp/houshizaki/tuboseyama.htm
<茶屋跡の南端より登山開始  明確な道を進む>
 右に歴史ある茶屋跡を眺めながら緩やかな坂へ向かう。これだけでも烽火山の坪背山へ向かう期待感が高まる。周囲は樹林に覆われているが、足下に夏草も無く歩きやすい。なお、尾根との合流点付近まで目印のビニールテープをつけておいたので、今年いっぱいは持つだろう。登山口から7分程度進めば尾根道へ着き、明確な登山道に合流する。この合流点付近には昔の道が北へ向かって延びているようだが、途中でこの道は消えてしまう。


「この合流点付近には昔の道が北へ向かって延びているようだが、途中でこの道は消えてしまう」
皆さん。この文面から“オカシさ”を感じませんか? ここは、脇道と茶屋から登った合流点であり、大文字地形では、左ハライ部の中間にあり、「北の道が」北へ向かう必要のないところ。必要でないところに道痕がある! その先の行き止まりに、その坑道の入り口が隠れているのではないか!
何やらの神が坑道へ埋められた。あるいは、幽閉されたのであれば、坑道とあるように、その穴を掘り進めるための日数が必要であり、その行き帰りの道を踏み固めることとなる。そこが自然洞穴であれば、わざわざ「坑道」などと断わりはしない。穴を掘るための道があったのである。もし、この坑道の奥に銅鏡がある。あったのであれば、環状木柱列の謎解きで冬至の旭光を迎え入れるとした意もあることから、坑道=光道につうじ、ある程度の長さを持っていることとなる。そして、千〇百年前は銅製器のみと考えられた時期ではあるが、坑道を掘るための鏨・タガネ鉄器が必要になる岩盤にあたるかも知れない。出雲は銅の自然鉱石及び砂鉄の産地であり、大陸技術最先端の土地柄。銅製期にかさなって鉄器の移入があったのかも知れない。

<冬至の旭光>
冬至の旭光については幾度となく触れてきたが、その坑道があるとして考えを進める。その坑道の奥へ南東からの冬至の旭光が射しこむのであろうか。いや射しこまなければならない。
  ここで、千〇百年前の冬至の旭光に触れておきたい。かつてのニュースに、イヌイットの長老が冬至の朝の旭光の昇る位置がずいぶんズレて来たとNASAへ投稿したことがあった。この件に関しては地軸の歳差運動が知られているが、長老の覚えを十五歳から八十五歳として高緯度になればその昇る場所が大きく移動する?かが問題なのだ。 まったくアテにならない素人の計算ですが、「70年に、∠1度時計回りに移動するか?」としたことがあった。どなた様かご教示を!!人生50年と云われた時代。朝日の昇る向山に∠一度、振れようがふれまいが認識は出来ない。英国で日時計の意もあったとされるストンサークルでは、その構築に700年もかかっているとし、日の出の位置がズレてくることから、その意をなさなくなったとして途中止めにしたとする説がありました。でも、今でもそれが観光になっています。逸れた話をもとにもどして、(~~!)
 筆者のいうのは卑弥呼の代である。今からおよそ1700前。その坑口に立ち弥山の山稜のどの位置から昇ってくるのか? それを知りたい。見当では鼻突峠辺りかと思っているが“実況見分”が必要だ。

※ 坑口の位置予測  (島根県出雲市大社町杵築東)大の字地形の左ハライ部、
     <北緯35度24分52.89秒 東経132度41分2.82秒>

ここから、第三ポールの下まで、約200mはある。信じられない数字である。実際にどの程度掘っているかは分からないが(ツナシの)十丈約33mは掘りたいところだ。その〇〇を置いた奥まで朝日が見えて光が届く必要がある。その長さは、この歴史の移行かと思える古墳の玄室をイメージすればよい。ついでながら、冬至の日の出は、いつもいつも快晴の日ばかりではない。快晴であっても雲に隠れたりモヤがかかったりもする。以前の記事でも述べたが、それを補正するために冬至十夜が考えだされ、定位置にノボリや剣先(錫杖)を立てたりして、その突先に太陽が昇ればいい。 「お陰様で」や「御来光」の言葉は、これより発生しているのではないだろうか。わたしなら、影より万物を育てるお日い様が欲しいし、一秒間に地球を7回り半もする光の速さを御来光とは云わないで「御射光」と言いたい。「来る」という言葉は光と共に神様が来るということを意味する。この考えは先尖りの山「剣山信仰」へと<歴史の拡散>-筆者の造語です^^!をしている。 □ ('17/11/11)
 最後に、青面金剛さま>や、法師崎のやまある記さま>の貴重な情報により、より深く追求できましたことを感謝いたします。以降は、皆様にお譲りし、今回はとりあえずこれまでにします・・・・^^!  ('17/11/12)□

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html

 

漢字の起源と成り立ち

 投稿者:アストライアの会  投稿日:2017年11月 1日(水)11時29分9秒 211.net059086126.t-com.ne.jp
返信・引用
  中国文明は漢字と共に有り
 漢字が生まれたのは古代中国の殷王朝によって用いられた甲骨文字が嚆矢(こうし)とされる。亀の甲羅や動物の骨に刻まれ、祭祀のため、いわば神との対話のために造られたのである。
後に殷との戦いに勝利した新しい王朝周は、神との交信のためだった漢字を他部族との意思疎通や契約のために使うという発想の大転換を行った。
表意文字として漢字は瞬く間に各地に浸透して行き、広く東アジア、東南アジアに伝播し現在に至っている。
甲骨文字は殷墟つまり河南省安陽市周辺で最初に出土され、現在も調査が続けられている。しかしこの時点では文字体系としてかなり成熟しており、更に古くから使用されていた事が想像される。漢字の起源は未だ謎のままと言って過言ではない。またエジプトを始め古代表意文字が消滅する中で、漢字だけが何故使われ続けたのか、研究者の間でも十分な説明はなされていない。
この謎に満ちて、力強く美しく奥深い、無限の魅力と表現力を秘めた漢字の原点を講師と共に探って行きたい。

(講師の言葉)友達に誘われ、なんとなく同じ大学の国語教員を養成する学部に合格して漢字を学びました。その後中国で日本語教師として勤務する機会が有りました。帰国後、中国の古典を極めたい気持ちを抑えがたく、大学院に入り直し、やがて大学教員になりました。人生どうなるか、全く分からないものですね。

「世界古代文明の謎を探る」(14)漢字の起源と成り立ち
主 催 アストライアの会  協 力 日本セカンドライフ協会
ゲスト 小幡敏行横浜市立大学准教授 元北京日本学研究センター主任教授
日 時 平成29年11月24日(金)午後2時から5時
会 場 豊島区生活産業プラザ601号室(池袋駅東口より徒歩約8分)
    (LABIという電気店ビルの裏手の先の児童公園を過ぎて、茶色のビルです)
費 用 お茶代込み参加費二千円
連絡先 TEL/FAX 049(258)3218 松原まで
備 考 画像を駆使したビジュアルなお話し。後半はゲストを交えたお茶会です。

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